語る

抜群のプラセンタ注射

自宅にとって返し、ホテルへ電話すると、Tもせき込んだ声でいった。
ドナーが出そうだという連絡が入ってます。
あなたは二番目の候補者ということだけれども、一番目の方は容態がよくないということで、多分、回ってくると思う。
どうします?イエスなら今日中にK大病院に入ってほしい。
僕もすぐ帰りますから」はい、わかりました。
よろしくお願いしますIおうむ返しに答えつつ、Gは自分が冷静であることを感じていた。
新幹線の東京発大阪行き最終のぞみ号は午後九時十八分発である。
まだ三時間はある。
その間にできることをやらなくっちゃ……。
まず脳裏に浮かんだのは仕事のことだった。
彼女はフリーのコピーツィターをしてきた。
広告制作会社の依頼を受け、クライアントに会ってヒアリングをし、資料を受け取り、期日までに原稿を書く。
プロのライターとして過ごして数年、約束の期日に遅れたことは一度もなかった。
が、このたびはキャンセルも仕方ない。
再び仕事をさせてもらうにしてもずっと先のこと、あるいはもうこの世にいないかもしれないから……。
土曜の夕、制作会社の担当者は自宅でつかまった。
「急に脳死肝移植を受けることになりまして……」。
相手はぽかんという感じで受け答えをする。
無理もない。
肝臓を患う重病人であることを伝えていなかったからである。
詳細を語っている余裕はない。
とにかく資料を送り返しますから、といって電話を切った。
切ったとたん、次に電話が入ってくる。
電話でやりとりをし、衣類などをバッグに詰めながら、頭に浮かぶのは実に瓊末なことだった。
しばらく留守になる。
留守電に長期不在のメッセージをセットし、家を出た。
小雨が降っていたが、なんだか傘をさしたくない。
濡れながら商店街を足早に歩いた。
三鷹駅から中央線で東京駅に出る。
最終ののぞみ号はすいていた。
この間も携帯のランプが次に点滅する。
つばさちゃんがテニス仲間に知らせたらしい。
座席を立って通路に向かうとき、前方の扉の上に流れるニューステロップがふと目に入った。
いまだ実感のともなわない奇妙な知覚のなかで、彼女は文字を追いつつ思っていた。
葛西式手術の記憶はなにもなく、腹部にうっすら残る傷だけが胆道閉鎖症の痕跡である。
Eの場合と同じく、少女期の病の記憶はなにもない。
葛西式手術としては非常にうまくいったケースともいえようが、病の根は執念深く、潜み続けていたのである。
Gは一九六五年、大阪生まれ。
父の転勤で、小学生の途財から名古屋で、大学からは東京で暮らしている。
都内の短大を卒業後、印刷会社に入社した。
営業職を割り当てられたが、制作に興味をもち、やがて制作部門に代わる。
さまざまな広告物をプランし、モノを作る仕事が好きだった。
コピーツィターとして独立するのが二十八歳である。
彼女と接していると、自分の生き方をしっかりもって自立して生きてきた女性の爽やかさが伝わってくる。
経済成長期に生まれ育った世代の特徴でもあろうが、それはまた彼女の資質であるのだろう。
病のこと、移植手術のこと、仕事、趣味、生き方……。
インタビューは長時間に及んだが、自身の内面を言葉豊かに語る明晰な人だった。
自身をこんな風にいう。
のは、それをやったほうがいいか、やめたほうがいいかと迷ったとき、自分の気持に正直でありたいと思ったことでしょうか。
岐路に立つといつも心の声が聞こえてくるんですね、本当はこうしたいんだろうって。
会社をやめるときも、独立して仕事をはじめたときも、それにしたがったように思えるのです。
そういう意味でこれまでの人生に後悔はないですね」ライターとして独立してまもなく、よく高熱を発するようになった。
風邪なんだろうと、気にとめていなかったが、月一度が、三週間に一度、二週間に一度と間隔が狭まってくる。
どこかおかしい。
近所の医院に行くと、黄疸の出ている顔を見てすぐ、医者は大きな病院に行ったほうがいいといった。
武蔵野にある日赤病院で受けた診断結果は胆管炎。
肝外、肝内を含め、肝臓に出入りしている胆管すべてが痩せ細り、機能が乏しくなっているという。
葛西式手術による。
耐用年数”が切れかかっていたのだった。
二十代後半から三十代前半、彼女にとって病を抱えつつ仕事をこなす日が続いていく。
最初の診断ですでに、将来的には移植しか……という言葉を聞いたように記憶する。
このままではあと数年しか……という言葉も耳にしたが、彼女には他人ごとのように通過していった。
だるさ、黄疸、高熱、下血……という症状が断続的にやってきたが、通院あるいは入院すれば症状は軽減された。
これまでなんとかやってこれた、これからもやっていけるんじゃないだろうか、四十歳までしか生きられなかったとしても別に悔いはない、独身だし、子供もいないよく思った。
残された時間がわずかだとして、どう生きたいか。
お洒落をすることも買物をすることにも興味を失っていた。
パリにもバリ島にも行きたいとは思わない。
望むことは、いまある生活を一日でも持続することだった。
仕事をして、テニスをして、毎日をきちんと生きたい……。
結局、望むことはそれ以外、浮かんでこなかった。
私かGという名前を知ったのは新聞記事によってである。
二〇〇一年夏、神戸で開かれた「第十三回世界移植者スポーツ大会」のテニス部門、女子シングルスシニアの部における優勝者を伝える記事と写真であった。
それは、彼女が移植手術を受けて一年余りのちのことであったが、むろん、発病当時、このような事態は予想だにしていない。
テニスは印刷会社に勤務していたころ、なにか趣味をもちたいと思ってはじめたものである。
社会人のためのテニススクールに通いはじめたのが最初で、新宿区にあるテニススクールの会員となる。
このスポーツが大いに気に入り、週三回は通うようになった。
一番の楽しみごとで体調を崩して以降、動くのがつらく、家でコロンと寝転んでいるときが多くなった。
ただ、ラケットを持っているときはすべてを忘れられる。
スライスする球を打ちたい、一人前のシングルスのプレーヤーになってみたい……。
スクールに出向くときだけは億劫でないのだ。
それに、小さな動機を加えてもいいだろう。
常時、黄疸が出ているから顔色が悪い。
野外のテニススクールだと日焼けでごまかせる。
目の黄疸は薄い色の眼鏡をかけてカムフラージュした。
『もちろんよく見ればわかるのだろうが、テニス仲間はだれも体のことを詮索しなかった。
スクールでいい友たちができたことも心の支えになった。
日赤病院で入院中、プレーできる日に備えて、ベッドの上でストレッチをしたり、病院の屋上で走ったりもした。
そのせいで、「怪しい患者」といわれたこともあった。
胆管はさらに機嫌が悪くなっていった。
日赤、またその後、通院先とした東京医科大・八王子医療センターでの短期入院も頻繁になっていった。
それでも仕事はずっと続けていた。
今日休んだところで明日良くなるわけではない。
できる日までやり続けようI。
フリーのライターであるから通勤はない。
期日に遅れず約束ごとさえ守っていれば文句は出ない。
だからできたというのだが、それは彼女の強い意志力のなせることであったろう。
それに、フリーランスは仕事をしなければ干上かってしまう。
日赤の担当医を野口修という。
消化器系の若い内科医である。
「移植」という言葉をしばしば口にするようになった。

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